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快適AV(072)ライフ

快適なオナニーライフを目指した日々の試行錯誤

わたしの偉人100人 VOL.25

今回は芸術家、岡本太郎

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漫画家の岡本一平と作家の岡本かの子の一人息子として生まれ、幼少より絵を盛んに描いていたが、ピカソに衝撃を受けて以来、ピカソを超えることを目標に絵画制作にのめり込んでいった。

その芸術観は既成の枠組みを嫌い、権威的なものには徹底的に反抗をし、常に人間としての自由を追い求めた。自分の作品をガラス越しで展示されることを嫌い、国立近代美術館で展示中だった「コントルポアン」が傷つけられた際に、それ以降関係者がガラス越しでの展示を提案すると激怒して、「傷がつけば、俺が直してやる」と拒否したという話があり、大作「明日の神話」はその太郎の意志を受けて渋谷駅に展示されている。

有名な太陽の塔は「世界を支えているのは無名の人たちである」と塔の内部に無名の人々の写真を並べたり、塔の目の部分を占拠し万博中止を訴えたアイジャック事件の犯人に対し、「イカスねえ。ダンスでも踊ったらよかろうに。自分の作品がこういう形で汚されてもかまわない。聖なるものは、常に汚されるという前提をもっているからね」と語った。

そうした考えを芸術作品以外に多くの著作に残した人ですが、生涯のパートナーだった岡本敏子が太郎の死後に出した本があります、これが一番人間臭くて好きです。


愛する言葉愛する言葉
(2006/06/01)
岡本 太郎、岡本 敏子 他

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わたしの偉人100人 VOL.25

今回はお休みになります。次回をお楽しみにして下さいm(_ _)m

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わたしの偉人100人 VOL.24

今回のわたしの偉人100人は落語家、桂枝雀

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本名を前田達(まえだとおる)。神戸大に入学するが「大学がどんなとこか大体分かりました」とあっさり辞め、3代目米朝に弟子入りし、桂小米時代は内容を深く掘り下げた大阪では珍しいインテリスタイルの落語からはじまり、2代目枝雀の襲名を境にその落語スタイルを大きく変え、高座で笑顔を絶やさず、オーバーアクションの計算された芸と独自のセンスでそのスタイルを作り上げ、落語界にひとつの時代を築いた。

「緊張と緩和」「サゲの4分類」といった笑いを理論的に追求していった持論から、持ちネタを60としてそれらの研鑽に専念した姿勢、前後編分けることの多い「地獄八景亡者戯」を一気に演じきり、伝説となった1984年3月28日の歌舞伎座での「第一回桂枝雀独演会」、その後の英語落語の展開はその成功や評価とともに芸を突き詰め自身を追い詰めてしまう危うい性格をうつしていたのかもしれません。

エピソードや影響を与えた人物も多く、上岡龍太郎が20歳の頃に米朝の弟子になろうとして、その時に米朝宅にいた小米時代の枝雀を見てこの人にはかなわないと弟子入りを諦めたという話や、松本人志は「最高にノッている枝雀寄席はなぜか分からないけど鳥肌が立って泣けてくる。もちろん本人はそんな意図でやっていないだろうけど…芸人は寛美さんや枝雀さんのように常に作品を作っていかなければならない。僕はそういう人になりたいと思う。」と語った。

うつ病に悩まされ、高座のマクラで「うつ病になってしまった」と話したり、「色んなことを試みてるうちに、自分の落語がわからなくなってきた」と泣いたりすることもあったという。そして1999年3月13日に自宅で首吊り自殺を図っているところを発見され、その後意識が戻ることなく4月19日に死去した。享年60歳、突然過ぎた死でした。

「ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になる」という気持ちから、常に明るく陽気であろうとし、「まぁるく、まぁるく」という言葉をサインの横に添えた人でした。師匠米朝と比べられ、同じ古典落語でも米朝がオーソドックスな落語スタイルからその人柄を生真面目に捉えられがちですが、その芸に至った道や生き方を思うと、師匠米朝よりも生真面目だったのが枝雀だったのかもしれません。米朝が「死ぬよりほかなかったのかと今は思う。」と語った言葉が悲しく響きます。

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わたしの偉人100人 VOL.23

今回の偉人は脚本家で推理小説家の野沢尚

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中学時代は映画監督志望で、8ミリカメラで自主映画を作っていたが、「映画はまずシナリオありき」との思いから、倉本聰の文体を真似て独学でシナリオを書き始め、連ドラ全盛時に『恋人よ』『青い鳥』『結婚前夜』『眠れる森』『氷の世界』『水曜日の情事と』と緻密な人物設定から登場人物たちが織り成す骨太で起伏のある独特の色のあるストーリーを作り上げ、ドラマ全盛時にキムタクとミポリンが主演した『眠れる森』は誰が犯人なのかというのが毎週の話題で当時のスポーツ新聞では競馬予想を真似て誰が本命、誰が大穴という記事が書かれ一大ブームを作った。

そしてTVドラマ脚本が評価を受ける一方で、『深紅』『砦なき者』『魔笛』『殺し屋シュウ』といった小説にも仕事の幅を広げ、その世界観を固めていき、絶筆となった『ひたひたと』、その文庫版に収録されているプロット段階の『群青』などは特別ではない普通の人間が持つ闇の部分や悪について、恐ろしいまでにリアリティを感じさせる描写でその到達した世界観を描き、その絶頂の最中の44歳になった約1ヵ月後の6月28日、「夢はいっぱいあるけど、失礼します」と知人に書き残し、事務所マンションで首吊り自殺した。

「伊丹十三が自殺した。新井将敬が自殺した。中小企業の3人の社長は牛丼を最後の晩餐にして、揃って首を吊った。~(中略)~こんな大人たちの有り様を見て子供は思うに違いない。『要するに死ねばいいんだ。追い詰められたら、死に逃げ込めばいいんだ』危険極まりない時代だ。だから言いたい。『どんな悲惨な過去に苦しめられ、どんなに罪深い過ちをおかしていようと、全てを引き受け、その人生を生きろ』」

とあるこの『眠れる森』の文庫版に併録されている文章を自殺後に読むと皮肉な部分もありますが、漱石が『坊っちゃん』で書いた赤シャツのように、彼の作品の中に登場する暗い過去や因縁を引きずる人物はきっと彼自身であり、この言葉はそんな自分自身への言葉であり、その必死の戦いがあれほどまでに彼が作る登場人物に凄まじいまでの存在感を与えていたのかもしれません…。


ひたひたと (講談社文庫)ひたひたと (講談社文庫)
(2007/05/15)
野沢 尚

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わたしの偉人100人 VOL.22

今回の偉人はグラミン銀行創設者であり、ノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌス

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英国統治下にあったバングラデシュに生まれ、フルブライト奨学金を得て渡米し、1969年にヴァンタービルト大学で経済学の博士号を取得した後はテネシー州で同郷の友人と「バングラデシュ市民委員会」を作り、祖国の独立を支援、独立後の1972年に帰国しチッタゴン大学経済学部長に就任後、学問の机上のやりとりに葛藤して野に下り、1976年グラミン銀行プロジェクトを始めた人。

グラミン銀行が起源といわれるマイクロクレジットという、その画期的な考え方は失業者や十分な資金のない起業家を対象とする小額の融資システムで

1,極小額の返済
2,グループ貸し付けによる連帯責任制度
3,定期的返済

をその特色として相互の信頼にその基盤をもち、近年は「絶対に失敗する。なぜならこの国では人がお互いを信用しないから」と言われたアメリカ、ニューヨーク支店でも返済率は現在96.6%と従来の銀行ビジネスの常識からすれば奇跡といえる数字を出している。

そしてユヌスは利益の最大化を目指すビジネスとは異なるビジネスモデルとして、NPOともチャリティとも違う「ソーシャル・ビジネス」という新しいモデルを提唱しました。ソーシャル・ビジネスとは、特定の社会的目標を追求するために行なわれ、その目標を達成する間に総費用の回収を目指すと定義し、2種類のソーシャル・ビジネスの可能性をあげている。一つ目は社会的利益を追求する企業であり、二つ目は貧しい人々により所有され、最大限の利益を追求して彼らの貧困を軽減するビジネスとしている。

人間の無限大の可能性を信じ、その力の使い方のひとつのモデルとしてユヌスが提唱したものは人間を大きく前進させています。


貧困のない世界を創る貧困のない世界を創る
(2008/10/24)
ムハマド・ユヌス

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